書評
更新日=1997年7月20日
- SAPIO 1997年4月9日号 45頁(熱血書想倶楽部):
”人間とは何か”という命題を常に念頭に持ち、生命35億年の進化の歴史を、遺伝子の寄与を中心に探る。遺伝子の基礎概念、著者が信奉する中立論と淘汰論との論争にも触れ概括する。バクテリアから人間まで進化の道行きを類人猿、人間(人種、個人間など)同士でも比較し論じる。人間を特殊でなく壮大な生命の系統の中で捕えた視点に共感を覚える。
- メーリングリストEVOLVE 1997年3月6日:
Date: Thu, 6 Mar 97 16:18:50 JST
EVOLVE 会員の皆様(by 矢原徹一)
書評:斎藤成也「遺伝子は35億年の夢を見る」大和書房 229ページ 1957円
「潜伏先」の京都・芝蘭会館に斎藤さんが上記の本を「差し入れ」してくださいま した。数日後に大学に「出頭」すると、「調書」をたくさん書かねばならないので、 その前に書評を書いておきます。
斎藤さんは自分の思索や立場を明快に語る人ですね。その斎藤さんの姿勢がストレ ートに出た本です。六歳のころに始まったという「死への恐怖」から、自ずと「生命 」とはなにか、さらにはそれが生ずる場として最大の存在である「宇宙」とは何か、 という疑問が湧いてきたという語りから、この本は書き始められています。続いて以 下のテーマについて、斎藤さんの考えが語られています。
目次
これらのテーマの解説書としても、本書は推奨できます。しかし何よりも記述の各 所に斎藤さんの思索遍歴がちりばめられているところが本書の特色です。第2章では 斎藤さんがなぜ自然淘汰論に疑問を感じ、中立説と出会ってなぜ「目から鱗が落ちる 思い」をしたかが書かれています。適者生存の考え方を人間社会に拡張することへの 疑問や、大乗仏教の「空の思想」・宮沢賢治の世界観への共鳴が率直に語られていま す。私は「科学」の成果そのものだけなく、「科学」者が研究の過程でたどった思索 遍歴に関心があるので、とても興味深く、また楽しく本書を読みました。
斎藤さんは「私は中立論者なので、できることならすべての進化が中立的に起こっ ていたら素敵なのだが、と常々思っている」と書いています。しかし一方で「遺伝子 の中にはやはりダーウィン流の正の自然淘汰を経ている遺伝子もある」ことを紹介し ています。また脳については、人工知能的脳解釈とそれを否定する立場の間で、「私 自身の立場は揺れ動いている」と正直に書かれています。このような記述を読むと、 斎藤さんの考えの強情な部分と柔軟な部分がよくわかります。
斎藤さんは現代生物学の発展を生気論に対する機械論の勝利として描いています。 そのため、脳研究の専門家のなかに心身二元論者が案外いることが納得できないよう です。「機械論の立場に立つ生物学者ならば、そこから論理的に帰結する心身一元論 を支持するばずである」と書いています。しかし一方で、生気論にくみしたと断じた デルブリュックについて「間違った視点から研究を始めたとはいえ、彼は分子生物学 の草創期に大きな貢献をしている」ことを認めています。
斎藤さんには、生気論に対して機械論が勝利したように、進化の研究においても目 的論的淘汰論に対して中立論が勝利をおさめるはずだという考えがあるようです。そ して進化を偶然が支配する現象としてとらえることで、機械論をのりこえたいという 思いがあるようです。これはひとつの一貫した立場ですね。私は斎藤さんが目的論と して一括しているもののなかに、唯物論的な目的論と観念論的な目的論があると思い ます。ドーキンスがわかりやすく語った遺伝子の利己性という視点では、遺伝子とい う物質に自己増殖という「目的」が内在すると考えています。これを目的論というな ら、唯物論的な目的論というべきでしょう。この考えは、生気論や全体主義につなが る「種族維持」という考えを排斥する上で、非常に強力な武器になりました。このよ うな唯物論的な目的論と中立論は、二律背反的な立場ではないと私は思います。
一読して、斎藤さんは自分の考えを簡潔明快に語ることができる人だと関心しまし た。記述されている知識や考えに曖昧さがないので、思索や推論が書かれていても、 わずらわしさを感じずに読むことができます。他人にわかりやすく問題提起をするに はどうすれば良いかを学ぶ上でも、EVOLVE会員の皆さんに一読をお進めします。
えっ、わかりにくいのは私のメールだって? 斎藤さんの「仏典」を読んだので、 少しは悟れたかなあ。(芝蘭会館にて)
追記:theoryを「論」と訳すのは好ましくないと思います。Evolutionary theoryは 進化理論、selection theoryは淘汰理論、neutral theoryは中立理論と訳すべきです 。「論」と訳せば、英語のspeculationに近い意味に受け取られるのが普通です。
マイナーコメント:「ただし、脊椎動物のなかでも爬虫類・鳥類・哺乳類では、性染 色体の種類によって生まれてくる個体の雌雄を決定するメカニズムが確立しているの で、倍数体化した個体の子供はすべて雄になってしまう」(p. 41)という記述は、 爬虫類に関しては誤りです。爬虫類では性染色体を持たず、温度性決定を行う種が少 なくありません。また倍数体も知られています。
- 広島大学の彦坂暁氏による書評
- 日経サイエンス 1997年6月号 131頁(新刊ガイド):
遺伝子の塩基配列の解読は自動化が進んで,単なる”作業”になったという声を聞く 。けれども解析したデータから,あれこれと想像をめぐらせるのは楽しいし,それこ そが科学の楽しみなのだろう。たとえば,赤色を感知する視覚分子の遺伝子は,X染 色体に乗っている。ごく一部の女性では,2本の染色体で少し違う遺伝子が乗ってい るという。こうした女性は同じものを2つ持つ女性や,もともと1つしか持たない男性に比べて赤色が豊かに見えるかもしれないという。
筆者は高校生のときから,進化には遺伝子の突然変異が決定的に重要だということ に気付いていた。しかし,当時,突然変異は単なる素材で,真に創造的な役割をはた すのは自然淘汰であるというネオダーウィニズムが強かったらしい。その後,木村資 生の中立論に出会い,目からウロコが落ちるような思いをする。中立論では,突然変 異が主役になるのである。
私たちのDNAに,35億年の生物の進化の歴史のすべてが書き込まれているという 本書の主張は,中立論がわかっていないと,本当には理解できない。このため,最初 の2章は遺伝子に関する基礎知識と中立論の解説に割かれている。この分野に詳しい 人にはまどろっこしいだろうし,逆になじみのない人にはしんどいかもしれない。け れども,ぜひ最後まで読んでいただきたい。
- 科学 1997年7月号 570-572頁(書評)
四方哲也
大阪大学工学部応用生物工学科
本書は自分の起源を知りたい人のための入門書である。入門書とはいっても,遺伝子系統樹作りの専門家である斎藤氏によって書かれた本なので,最新の研究結果が取り入れられている。進化の研究には,そのメカニズムの探求と歴史の解読の二つがあるが,本書は後者のほうがメインであろう。そのため,進化のメカニズムについての記述は少なく,やや難解な部分もあるが,むしろ,人間へつながる進化の紐解きを楽しみたい人には待望の書である。以下,各章の簡単な紹介をしながら評者の独断的意見を述べる。
1章では,遺伝子からタンパク質への分子生物学を簡単におさらいした後,突然変異によるDNA配列の変化から遺伝子系統樹が描かれるまでを簡単に紹介している。遺伝子系統樹の描き方に関しては,著者の専門領域にも入ると思うのだが,詳しくは書かれていない。あえて,歴史を紐解く立場に徹し,年代推定法などの議論を避けたために読みやすくなっている。
2章は木村資生氏の分子進化の中立説の説明である。著者が中立説にいかに惚れ込んでいるかがわかる。とくに,中学生のころからいろいろな本を読んだが,自然淘汰の考えがしっくりこなかったという著者には個人的な共感を覚える。科学的な根拠は別として,どうも自然淘汰の考えには好きな人と嫌いな人がいるようだ。
2章の自然淘汰万能論者との対話で著者が紹介しているように,自然淘汰の考えは現状を目的論的に説明する。生物のある構造をみたとき,それがなにかの役に立っていて,そのためにうまく創られていると説明することは多くの場合で可能である。そう説明すると,構造に論理的な必然性を与えたことになる。しかし,生物は本当に最適化で創られてきたのだろうか。
最適化ではなく生物の歴史性を重視した考えが本書全体を通して流れている。その歴史性を評者なりに意訳すると,生物の進化は積み木のようなものである。ある一つの積み木がつぎにどのように積まれるか,つまりどのような変異が集団に採用されるかは,土台としてどのような構造があるかによる。それまでに積み木がどのように組まれてきたかによるのである。いったん,ある方向に積み木が組まれてしまうと,それ以後はその組まれた構造に縛られた積み木しかできない。しかも,一つ一つの積み木を積む段階では最終デザインを知っているわけではなく,許容される複数の積み方の中から偶然一つを採用する。よって,できあがった構造が必ずしもよくできているわけではない。もし,組まれた積み木をいったん壊していろいろな構造を試してよいなら,最終構造はある目的のために最適化されうる。しかし,生物は一つ一つ積み木を積まなくてはならない。また,生き続けるためには途中まで造ったものをご破産にし,一から作りなおすことはできない。だから,生物は歴史に縛られるのである。
3,4,5章はこの本の最も読みごたえのある部分である。自分の存在に進化を通して近づきたいとうい著者の試みは,あるていど達成されているのではないか。豊富な遺伝子系統樹によって細菌からヒトにいたる進化が鮮やかに描かれている。まるでみてきたように感じられるところもある。やはり,ヒトへの進化は面白い。進化の本というとお話だけのものもあるが,本書にでてくる筋書きは根拠が定まっているので安心して読める。
6章では再び,著者の初めの質問,”自分とはなにか”に帰ってくる。そして,本書で述べられている細菌から人間への進化を用いた説明をいったんすべて否定している。われわれが知っている自分自身という存在と遺伝子を中心とした還元論的説明とのギャップから,この宣言が現れている。これは,この本の説明が無意味であるといっているわけではない。しかし,その説明だけでは,自分自身の存在に肉薄することができないことを認めているのであろう。
最近流行の精神異常をあつかった小説を読むと,われわれ自身について考えさせられることが多い。”自分とはなにか”に迫ってくるのである。小説には含まれているが科学の説明には少ないものはドラマである。遺伝的浮動の偶然性による説明が生物進化のドラマ性を下げているのかもしれない。遺伝的浮動による偶然性は,つぎの世代に生き残る遺伝子はランダムに選ばれると仮定することによる。著者の言葉を借りれば,恋愛,結婚,出産といった人生のドラマをすべて捨象してランダムサンプリングによって遺伝子は次世代に伝わると仮定するのである。
長い期間の進化を考えるには各世代の複雑なドラマなど扱っていられない。またいろいろな要因が重なって各世代のドラマが十分に複雑ならば,ランダムサンプリングを仮定しても,長時間平均としての分子進化のデータと合うかもしれない。
しかしながら,実際の進化は個々の生物が複雑に相互作用しながら進む。そのような系では必ずしも,適応度のようなポテンシャルがあるわけではない。よって,よいものが選ばれてくるわけではない。また,中立説のように各要素,たとえば,遺伝子が独立にランダムに振る舞うわけでもない。複雑なドラマが運命を決めるのである。この複雑なドラマを取り入れていくことによって進化はより生き生きと描かれるのではなかろうか。そして,われわれのアイデンティティーに歴史的ルーツを与えられるのではなかろうか。
複雑な生物進化をどのように描いたらよいのだろうか。系統樹などで得られた歴史の情報にしたがって,実験的に進化を創ることは一つの道であろう。35億年の進化は無理としても,各ステップは可能である。いろいろなステップを多くの人が分担して行えばできない話ではない。創りだした進化の作品を数多く比べることで普遍的な理解に迫れるのではないか。事実は小説より奇なりという。起こりうる進化を事実として再現することによって,小説を越える複雑なドラマが語られるのであろう。